その昔、京より奥州に下るには東山道と東海道の二つのルートがあった。それは現在の国道4号線と6号線である。この道を北進してやがて、東海道は阿武隅川に差し掛かる。すると河口は広く渡るのに困難なので、河をさかのぼり、南長谷の対岸にいたり、河幅の狭くなった所で川を渡り、ここで東山道と合流して『あづま街道』となり、国府多賀城に至ったのである。
昔の街道の道筋には程ほどに神社やお寺が建立されてあり、それが旅ゆく人達の目安にもなれば、又旅宿ともなっていたのではなかろうか。
今から約千年近くも前のことであろうか、奥州名取郡の地に、あるお寺があった。このお寺のあった所は、あづま街道に沿った『萩の倉』と言うところである。古いことなので、何宗の何というお寺なのか、その名前も分からない。
ある年のことである。京都からきた旅人が、ここ笠島に来て日が暮れて、そこにあったお寺の一夜の宿を乞うたのである。寺の住職は遠来の旅人の労をねぎらい、こころよく接待をしたのであった。その夜住職と旅人は京都のこと、或いは長い道中のことなどを、囲炉裏を囲みお茶を飲みながら話に花を咲かせたことであったと想像される。
現在の交通手段は、飛行機もあれば新幹線も自動車もあり、極めて便利である。しかし、わらじ履きで徒歩の時代は大変であった。天気の良い日ばかりではない。雨の日もあれば風の日もある。毎日朝から夕方まで歩き、夕方になるとその場所でその日の宿を求めなければならない。こうして宿での語り合いにより街道沿いの村々にも京都の文化が伝播されたのである。
その頃このお寺に一夜の宿を求めた人はどんな人であったのだろうか。なにしろ京都からきて、ここ名取を通り多賀城に行くのか、さらに平泉まで行くのであろうか。それは国府の役人か、金売り吉次のような商人か、或いは旅の僧としておこうか。
この時この旅の僧は、昔から京都の蟹満寺と言う寺に伝わる、観音経の功徳と、蟹の報恩の物語を話したのである。この物語を聞いた住職は、大いに惑激したのである。そして住職は、この地方にも蟹満寺の物語をモデルとして地元に密着した、説話を創ることを考えたのである。頭のいい住職は、隣家の『うちでの長者』とその召使のお倉、智福院の池と蟹、沼の中に島に祀られている『弁天様』を結んで、蟹の報恩の物語を作ったのである。これが『蟹王山物語の誕生話』と私は考えている。
(猪股一夫)
太古、このあたりに善良で慈悲深い夫婦と一人娘が住んでいた。娘は幼い頃から特に慈しみ深く、常に観音経の普門品を読唱し、観音様を信仰していた。
ある日のこと、娘の父は村人が蟹を沢山捕らえ食べようとしているのを見て、蟹を買い求めて川に逃がしてやった。また父は田の草をとっていると、蛇が蛙を呑み込もうとしている。あまりにも可哀想なので、なんとかして蛙を助けてやりたいと思い、蛇に向かって『若しお前がその蛙を放してくれたなら、娘の婿にしよう』と言った。すると不思議にも蛇は蛙を放し、何処へともなく姿を消した。
突然のこととはいえ大変なことを言ってしまった父は仕事も手につかず家に帰ると、このことを娘に語り、その不本意を侮いたのであった。 案にたがわずその夜、衣冠束帯の美青年が門前に現れ、『昼間の約束通り娘と結婚させてくれ』と言って約束の実行を迫っている。困りはてた父は、嫁入りの支度を理由に三日後にまた来るようにいって男を帰したものの、そうすることも出来なかった。
遂に約束の日がきた。男は再び門前に現れた。しかし父親は雨戸を堅く閉じて、男を家の中に入れない。約束を守らない父親に腹をたてた男は、本性を現し、元の蛇の姿となって、尾をもって激しく雨戸を叩いて、荒れ狂っている。父娘は恐ろしさのあまり震えながら身を縮めている。
その時、娘はひたすら観音経の普門品を唱えていた。するとそこに、いかにも姿麗しい温顔に輝く観音様があらわれ、『決して恐れることなかれ、汝等の娘は慈悲の心深く、常に善良な行いをされ、又、我を信じて疑わず、我を念ずる観音力はことごとくこの危難を除くべし』と告げ姿を消しました。そうしているうちに、間もなくどうしたことか雨戸を叩く爆音は消え、夜が明けて見ると戸外には、ハサミでずたずたに切られた大蛇と無数の蟹の死骸が残されていた。親娘は観音様の御守護に感謝し、娘の身代わりとなったたくさんの蟹と、蛇の霊を弔うためにお堂を建てて観音様を祀りました。
以上は、京都の蟹満寺に伝わる縁起の粗筋である。沢山の蟹が出てきて、蛇をずたずたに鋏み切り、娘を危難から救った。そのため寺の名前を蟹満寺とし、
又、娘は日頃から、観音経の普門品を信じて、熱心に読誦していたので、山号を普門山としたとのことである。
このお寺は非常に古く、奈良時代には既に存在していたようである。寺には国宝の釈迦如来像、白鳳時代の丈六の銅像などがある。この寺では毎年四月十八日、この縁起に因んで蟹の供養祭りを行っている。
我が智福院では、平成十三年六月旅行団を組み、この物語の本家である蟹満寺を訪問して、交流を深めて帰った。
名取市愛島にある蟹王山智福院は三十六代目の亀井光昭住職が勤められ、西暦1436年の開山で580年以上続いているお寺です。
智福院では弁財天、そして山号の如く『蟹』を祀っています。弁財天は七福神の紅一点として有名ですが、そもそもインドのサラスバテイという河辺に立つ仏教以前の他の宗教の女神です。水、農業・音楽・財宝の神様として信仰されています。
そして蟹を祀っている寺は珍しく全国でも他に京都の蟹満寺のみとのことで、県内のみならず北海道や関東方面からなど多くの人が訪れます。
数年前に住職が、植木の腐葉土を取ろうと庭を掘っていたところ偶然にも銅製の蟹の像が発見されたとのこと。まさかそこにあるとも思わず偶然に発見したというとても不思議なお話しです。
そしてこのご神体ともいえる蟹の像はお寺の宝として大切にされています。なお蟹の像は寺を訪れた方は拝見できます。また新たに弁財天と蟹の石像を市内の業者により建立。手に琵琶湖を持つ弁財天と大きな蟹の像と解説を刻んだ石碑があります。
郷土史研究会の有志で結成された「名取市古文書を読む会」にて「風土記御用書出(一七八一年・江戸中期)」を調べると、笠嶋村(現名取市愛島笠島)の地名の由来が記されてあり、又弁財天社の縁起は、地主弥右衛門が所持していると記されてありました。
そして地主弥右衛門の子孫である猪股昭一さんを訪ね、この先祖代々大切に伝えられていた縁起を見させて頂き解読されたとのこと。縁起は巻き物状になっており、まるで漢文のようです。
奥州名取郡笠島村に鎮座する弁財天社に、その昔から安置されている尊像は、立派な和尚様の作と伝えられているが、その人は誰なのか名前は伝えられておらず分からない。
この尊像はその後盗賊のために盗まれた。また社は、慶長七年(一六〇二)に野火のために焼けてしまった。従って縁起などは失くなってしまった。村の古老が語るのを私が聞いたのであるが、大昔、この辺は只不整形の沼地であった。その中に小さな一つの島があった。
その頃この部落に一軒の金持ちの農家(長者)があった。この長者の住んでいた所が、智福院というお寺の隣、『ウチデ』という所なので、上地の人達は「撃出(ウチデ)の長者」と呼んでいた。この長者の家に一人の召使がいた。その召使の名前を「お倉」と言った。お倉は毎日食器を洗うときには一粒の飯も粗末にすることなく、池に棲んでいる蟹に与えていたのである。
偶々、ある年の暮春(春の終わり頃)長者の主人は奉公人達を連れて田の仕事に出かけた。昼近くになり、お倉は昼食を持って家の南の農道を通り、沼を過ぎようとした。ふと首を巡らして沼を見ると、小島には美青年が立っていた。そして青年は声をあげてお倉を呼んでいる。
お倉が近付くと青年はお倉の手を握り、心を通わせている様子であった。そして青年は、お倉に向かって「私の妻になれ」と言った。お倉は黙って顧みなかった。そのうちに午の刻限も過ぎ昼食も遅れてしまった。主人はお倉の来るのを待ち兼ねていた。青年はお倉に対し「帰りには必ずこの道を戻るように、その笠を置いて行け」と言った。致し方なくお倉は青年に笠をあずけて田甫に行った。やがて昼食も終えたので、お倉は家に帰るのであるが、一本道なので致し方なくまた元来た道を戻るのである。
沼の所まで来て、小島をよく注意してみると、前に置いていった笠の中には大蛇がとぐろを巻いて眠っているようである。大蛇にびっくりしたお倉は、大蛇に気付かれないように、ここを通り過ぎようとした。物音に気付き眠りからさめた大蛇は、また青年に姿を変えてお倉を追ってきた。お倉はここで初めて、この男は蛇が化けたのであることを知った。逃げても逃げても蛇は追ってくるので、お倉は途中で智福院と言うお寺に逃げ込んだ。そして住職に救いを求めた。智福院には石の唐戸があったので、和尚さんはこの中にお倉を入れて、堅く蓋をしてお倉を護ってやった。そのうちにお倉を追っかけてきた男も寺の中に入ってきた。男は目を真っ赤にして大きな声を出して怒鳴っていたが、やがてその中に身を蛇に変えてお倉の入った唐戸(石櫃、蓋のついた大型の石の箱)をぐるぐる巻きにして、その尾をもって固く締め付けた。蛇は大きく口を開き、口の中から炎を吐きだす勢いはとても恐ろしく、誰も蛇を追い払う者はいなかった。
このときどこから来たのか、大小の蟹が数えきれないくらいぞろぞろと集まってきて、またたく間に蛇を鋏み切ってしまった。このことによって大きな蟹は傷つき、小さな蟹は死んでしまった。嗚呼虫や獣であっても、報恩の念には変わりはない。ここに至って当時の人達は、大いに感激して、蛇や蟹の遺骸を彼の小島に埋めて、その上に堂舎を建てた。そしてその中に弁財天女の尊像を安置して祭祀を行った。以前から野火に焼けたとか、賊のために盗まれたとか言われている尊像はこれではないだろうか。今建っている社は、享保二年(一七一七)笠島村の信者である弥右衛門が建立したものである。その中に安置されている天女の尊像や十五童子の像は、弥右衛門が京都の仏工「に命じて作ったものである。
弥右衛門の家では、寛延の頃(一七四八)より旗を立て、毎年三月十三日を祭りの日と定め、献供して祭祀を行っている。弁財天の御利益は極めてあらたかで、どんな人で真心を込めて祈れば成らざることなく、諸願皆成就するとされている。
この度、清信弥右衛門が当山(大年寺)に来て、私(湛然和尚)に会い、新しい縁起を作ることを丁寧に依頼された。私は快く弥右衛門の求めに応じ、その顛末を兼ねてこの縁起を書くことにした。
弥右衛門の意図するところは、弁財天の徳を広く世に知らせることである。この度私がこの縁起を書いたことによって、弁財天の徳は千年の後の世まで伝わることであろう。
(解読 猪股一夫)